2019年07月29日 20:50
すべてのグスクが成立期から現代まで、常に聖域であり続けた
と主張する聖域説に対し、
大半のグスクは、成立期は集落として誕生した
と論破した防御集落説。(『グスク防御集落説を理解する その3』参照)
しかし、まだ問題はあります。
問題その1
16世紀以降、ほとんどすべてのグスクが、人の住まない聖域へと変化します。
それはなぜなのか?
問題その2
〝大半のグスク”は防御集落だったとして、聖域的グスクも少数ながら存在することは嵩元氏も認めています。
集落と聖域、なぜ同じ「グスク」と呼ぶの?
今日は“問題その1”についてお話します。
集落が聖域へと変遷したのはなぜか!?
嵩元氏は以下のように考えました。
グスクに住んでいた人々が、集落内の拝所を残してグスクの外にお引越し
グスクは、残された拝所を中心として聖域の機能だけ後世に残した
嵩元氏のこの変遷案を私がイメージ図化したものが以下です。
↓
グスク防御集落説のグスク変遷イメージ
上が防御集落の時、下が引っ越し後、聖域になった時です。
ちなみに、『グスク聖域説を理解する その1』でご紹介した、仲松氏のグスクイメージがこちらです。
グスク集落説イメージ
それにしても、グスクに住む人々はなぜ、外に出ていったのでしょうか?
このことについて積極的に議論している人を知らないのですが、
文献情報で、1523年に各地の支配者が首里に集め住まわされたと載っています。
1523年よりも新しい遺物が出土するグスクもあるそうなので、これ契機に一気にグスクから人がいなくなったと断言はできませんが、
大きな影響があったのではないかと、個人的には考えています。
次回、“問題その2”
集落と聖域がなぜ同じ「グスク」と呼ばれるのかについて、防御集落説の考えをお話します。
参考文献
・武部拓磨『グスク聖域と支配者の諸相』 電子書籍 2019年
・嵩元政秀「『グシク』についての試論 ―考古学の立場より―」『琉大史学』創刊号 琉球大学史学会 1969年