21話 誓約書として使われた寺社のお札
クーデターや相続争いなどが立て続けに起こった琉球ですが、尚真の大胆な政策が功を奏してか、
16世紀の100年間、王権は比較的安定していました。
平和な時代を打ち壊したのは、
国外からの侵略者です。
1609年、薩摩が琉球を侵攻しました。
尚寧王の治世(1589-1620)でした。
抵抗むなしく敗れた
尚寧は薩摩に連行されます。
2年半に及ぶ日本での抑留生活を経てようやく帰国を許されますが、帰国前、
ある起請文(誓約書)を書かされます。
起請文の前半は、尚寧王が薩摩藩主に宛てて宣誓する形式で、ざっくり言うと以下のような内容でした。
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琉球は昔から薩摩に従属していたのに、ずっと言うことを聞かなくてごめんなさい。
薩摩藩主のお情けで、帰国できるだけでなく、奄美諸島以外の琉球の領土を与えていただけます。
本当に感謝します。
子々孫々に至るまで、薩摩に忠誠を誓います。
逆らうことは決してありません。
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もちろん琉球が薩摩に従属していたという事実はありません。
勝てば官軍とはこのことで、尚寧にとってはかなり屈辱的な宣誓をさせられたのでした。
さて、起請文の前半は尚寧の宣誓ですが、
後半には、宣誓が守られるための罰則が書いてあります。
宣誓を破るとどうなるのでしょうか?
神仏の罰を受けることになります。
ありとあらゆる神仏の名が書き連ねられ、まさに八百万の神仏の罰が当たるようになっているのです。
なんとも恐ろしい話です。。
起請文後半部分を
「神文」とよびますが、その文言の効力を発揮するため、神文は、
熊野那智大社の午王宝印(ごおうほういん)というお札の裏に書かれました。
熊野那智大社(和歌山県)
熊野那智大社別宮 飛瀧神社(和歌山県)
熊野那智大社の午王宝印(烏牛王神符)
(熊野那智大社ホームページより転載)午王宝印を起請文(誓約書)に使用するという風習は、中世の日本で広く見られます。
熊野権現を勧請していた琉球王府も、それなりに認知していたでしょう。
当時の人々が神仏の罰をどこまで本気で信じていたかは置いといて、
神仏への信心が前提となって誓約が成立していた点は大変重要です。
薩摩には逆らいませんと宣誓させられた尚寧は、無理難題を突き付けられるのでした。
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