2019年07月31日 22:55
グスク防御集落説と、現在のグスク論の定説のお話をしようと思いますが、
まず、防御集落説提唱者、嵩元氏のグスク観を確認します。
嵩元氏は、グスクを以下の3つに分類しました。
A:文献上よりも明らかに支配者の居城として認められるグスク
B:発生、興亡すら文献上、口碑上よりも不明確な点の多い野面積みの石垣遺構をもつグスク
C:グスクと呼ばれながら遺物のみられぬ、又は、出土してもB式の遺物より後世のそれしか出土しないグスク、又、その他特殊なグスク
これだとちょっと難解なので、『グスク防御集落説を理解する その2』でA・B・Cを単純化して、
A:城
B:防御集落
C:聖域、その他
と解説しました。
ただ今回は、C式の
「グスクと呼ばれながら遺物のみられぬ、又は、出土してもB式の遺物より後世のそれしか出土しないグスク」
を覚えておいてください。
あとで効いてきます(笑)
話を戻します。
嵩元氏は、A・B・Cの中で大半を占めるのはB式グスクだと考えました。
B式グスク(防御集落)の内、ほとんどは住居がグスク外に移され、残された拝所の機能が生き続けた結果、聖域へと変化しました。
↓
グスク防御集落説のグスク変遷イメージ
しかし、いくつかは発展を遂げ、A式グスク(城)になりました。
これが嵩元氏のB式グスクの全体像です。
では、「通説」はどのようになっているのでしょうか?
グスク論の通説ができあがるのに大きな貢献をしたのは、高良倉吉氏の論でした。
高良氏は、嵩元氏の防御集落説を基本的に支持しつつ、
聖域説との対立を解決するため、以下のような図式を提案しました。
図中(b)は、グスクの中の拝所を意味しています。
現在、さまざまな姿で残るグスクですが、はじめ拝所を備えた集落として発生し(B(b))、時代と共に、あるいは集落が移動することで聖域と化し((b))、あるいは集落が発展して城となり(A)、中には倉庫など新たな機能を備えたグスクへと変化するものがあったことで(C)、多様性をもつに至った
というのが、高良氏の考えでした。
この説は、図の明解さと相まって、最も説得力あるグスク観として定説の地位を築きます。
・・・
お気づきになりましたか?
実は、高良氏が発端となって成立したグスクの「通説」は、嵩元氏が想定したグスク防御集落の展開とほとんど同じなのです。
・・・
しかししかし、「通説」の成立によって、困ったことが起きています。
嵩元氏と高良氏のグスク観、確かにとても似ているのですが、
非常に重大な部分で相違があります。
C式グスクの定義です。
もう一度、嵩元氏のC式グスクの定義を思い返してください。
「グスクと呼ばれながら遺物のみられぬ、又は、出土してもB式の遺物より後世のそれしか出土しないグスク・・・」
高良氏の「グシク・モデル」上のC式グスクは、B式(防御集落)を由来としているので、100%遺物が出土するはずです。
しかし、そう
嵩元氏のC式の定義は、遺物が出ないグスクとその他特殊なグスクなのです。
遺物が出ないグスクは、すなわち、聖域的グスクです。
つまり、グスク論の「定説」は、
純粋な聖域グスクを置き去りにして成立してしまっているのです。
現在のグスク研究は城や集落の話ばかりで、聖域の事がまったく論じられていません。
その原因のひとつに、「定説」の成立があるように感じます。
しかし、グスクは、はっきり言って、聖域です!
(根拠は後日)
グスク防御集落説がとても重要な説のため長くなりましたが、これで一応、終わりです。
次回、再び息を吹き返したグスク城説についてお話します。
参考文献
・武部拓磨『グスク聖域と支配者の諸相』 電子書籍 2019年
・高良倉吉「沖縄原始社会史研究の諸問題 ―考古学的成果を中心に―」『沖縄歴史研究』第10号 沖縄歴史研究会 1973年
・嵩元政秀「『グシク』についての試論 ―考古学の立場より―」『琉大史学』創刊号 琉球大学史学会 1969年