グスク防御集落説を理解する その2

グスク防御集落説を提唱した、嵩元政秀氏の論を解説していますが、
前回は中途半端に終わってしまいました。
今回で核心に迫ろうと思います!


嵩元氏は、グスクを以下の3グループに分類しました。

A:文献上よりも明らかに支配者の居城として認められるグスク
B:発生、興亡すら文献上、口碑上よりも不明確な点の多い野面積みの石を垣遺構をもつグスク
C:グスクと呼ばれながら遺物のみられぬ、又は、出土してもB式の遺物より後世のそれしか出土しないグスク、又、その他特殊なグスク

そして、中でもBに関して、

原始社会の終末期より古代社会に移行する時期頃の防御された又は自衛意識をもって形成された集落

と定義しました。
これがグスク防御集落説です

・・・

なんて言われても、キョトン?ですよね?
私も10年間、キョトンとし続けました(笑)
考古学研究者の友達に気付かれないよう知ったかぶりながら(・´з`・;)

そして、10年経って導いた結論

A・・・城!
B・・・防御された集落!
C・・・その他!(聖域や倉庫など)


です(笑)
嵩元氏には怒られてしまいそうなほど単純化していますが(^^;)


根謝銘グスクの中城御嶽

根謝銘(ねじゃめ)グスク内にある「中城御嶽」(大宜味村)

嵩元分類では防御集落にあたる



要は、グスクには様々なタイプがあって、城があれば集落もあり、聖域もある
そして、その中で大多数を占めるのはB=防御集落である
というのが嵩元氏の考えなのです。

ときどき見られるグスク防御集落説の誤った解説に、
「グスクをA・B・Cに分ける考え」
といったものがあります。

もうお分かりでしょうが、防御集落説はBグスクのことで、A・Cは含まれません!
嵩元氏は、グスクの中の御嶽の存在も肯定していますし、仲松氏のいう聖域的グスクが存在することも認めているのです(Cにあたります)

では、なぜ両説は対立したのでしょうか?

それは、仲松氏がほとんどすべてのグスクが聖域であると主張したのに対し、
嵩元氏は、全グスクの内、大部分はBの防御集落であると考えたからです。


聖域に人は住めない! (『グスク聖域説を理解する その3』参照)

という一般常識を前提として、両者は対立したのでした。


ところで、ほとんどのグスクからはお碗やお皿などの遺物が多く出土します。

聖域説と防御集落説は、出土遺物の性格をどう解釈したのでしょうか?
次回はそのお話をしたいと思います。


参考文献

・嵩元政秀「『グシク』についての試論 ―考古学の立場より―」『琉大史学』創刊号 琉球大学史学会 1969年

・仲松弥秀「『グスク』考」『沖縄文化』第5号 沖縄文化協会 1961年





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