戦前の首里城は日本同化の象徴だった 2
戦前の首里城は「沖縄神社」でした。
と言っても、首里城正殿は神社の本殿ではありません。
沖縄神社本殿はこちら
山崎正董博士の写真(昭和8年4月6日撮影)
一般的な神社は、ご神体をお祀りする本殿と、それを拝むための拝殿が必ずあります。
備前八幡宮
首里城正殿は、沖縄神社では拝殿として使用されました。
米軍の空中写真(昭和20年4月2日撮影)
上の写真、赤い四角が首里城正殿(沖縄神社拝殿)、青い四角が沖縄神社本殿です。
今でいう御内原エリアに神社本殿は建立され、首里城正殿から拝んでいたのです。
さて、沖縄神社が創建されるのは1925年(大正14年)ですが、正殿はそれまでに
2度、取り壊しの危機に瀕しました。
日本の侵略によって琉球王国が滅亡し、1879年(明治12年)に沖縄県が設置されます。
それから1909年(明治42年)に首里区(のち首里市)に移管されるまで、日本軍の営所とされていました。
1度目の危機を迎えたのは、首里区に移管された1年後です。
荒廃の進んでいた正殿を取り壊し、跡地に小学校を建設するという案が出たのです。
経緯は分かりませんが、結局、正殿は取り壊されず、小学校は正殿の西側に建てられました。
空中写真で「ロ」字になっている施設がそれです。
2度目の危機は、沖縄神社の創立が政府に許可された1923年(大正12年)でした。
老朽化した正殿を取り壊すことが首里市の議会で決議されたのです。
これを止めたのは本土の心ある人々でした。
しかし取り壊しを免れたとして、維持管理していくには予算が必要です。
現在の文化財保護法のような法律が当時もあったのですが、建造物の場合、神社や寺院でなければ適応されませんでした。
そこで、正殿を沖縄神社の拝殿とすることで保護の対象にしてしまうという裏技を使い、正殿は守られたのでした。
しかし、沖縄神社の拝殿となって以降も正殿のメンテナンスは困難を極め、
昭和初期にはまた崩壊の危機にありました。
それも心ある本土の人々の尽力で、大修理されたのです。
元々、日本の侵略によって荒廃の一途をたどらざるを得ない状況に追い込まれた首里城ですが、
それを守った「心ある人々」が本土の人で、予算を投入したのが国であるというのは、なんとも皮肉なものです。
今、首里城再建の機運が高まっていますが、大半の沖縄県民の願いから再建が望まれるのは史上初のことです。
お金は相変わらず国頼みになってしまいますが。。。
以上、近代の首里城の変遷をざっとお話しました。
次回、なぜ首里城が日本同化の象徴といえるのかをお話していきます。
参考文献
加治順人『沖縄の神社』ひるぎ社 2000年
鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』角川書店 1965年
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