戦前の首里城は日本同化の象徴だった 9(最終回)

コッコたけぞう

2019年11月30日 23:50

戦前、本土並みが目指された沖縄の神社制度。
戦後はどのようになったのでしょうか?

首里城に建立された沖縄神社は、沖縄戦で灰燼に帰しました。
戦後、首里城跡には琉球大学が創立されます。

1943年(昭和18)に神社化されることが決定した御嶽(うたき)は、すべてが神社の姿に変えられる前に終戦を迎えました。


今でこそ神社に縁もゆかりも無さそうな沖縄ですが、戦後の米軍統治時代は、神社に対する信仰が継続していたようです。

1960年(昭和35)、首里在住の有志によって、沖縄神社再建の運動が起こります。
琉球大学に沖縄神社の土地返還を求めました。
米軍の肝いりで創立した琉球大学が許可するはずもなく、弁ヶ嶽入口付近に仮神殿が造営され今日に至ります。


沖縄神社仮神殿

戦後、戦没者の慰霊碑・塔などが各地に建立されますが、鳥居が建てられたところも少なくありません。


今帰仁村今泊の慰霊塔(1949年建立)

亡くなった親族の慰霊のため、靖国神社訪問団が結成されたりもしましたが、慰霊塔の鳥居も含め、
生き残った方々が、亡くなった人々を“日本人”として供養したい気持ちの表れ
であったと言えるでしょう。

米軍統治から解放され再び日本に復帰することを「祖国復帰」と呼んだように、大多数の沖縄人にとって、自身が日本人であることは当然のことだったようです。

ところで、近年の沖縄はどうでしょう?

日本人であることを前提に、日本とは違う沖縄の独自性・固有性を発揮している時代と言えるでしょうか。
歴史・民俗研究の分野でも、琉球・沖縄のオリジナリティを強調する研究が、大半を占めているように感じます。

その象徴が、火災の憂き目にあった復元首里城でした。

同じ首里城なのに、
日本と同じであることを強調した時代

日本とは異なることを誇る現在
たった140年の間で、県民にとっての首里城の意味合いは、目まぐるしく変化しているのです。

戦前に強調された共通性も、現代に好まれる固有性も、
学問的観点からすると、双方、正しいと思います。

私個人としては、
共通性を強調するがあまり固有性を潰してしまったり、
固有性を重視するがあまり共通性をないがしろにしてしまったり、
偏った歴史観を抱くことを憂えています。

共通性も固有性も、ぜんぶひっくるめての
琉球・沖縄の歴史文化なのだ


首里城再建の機運の中、冷静で客観的な歴史観がより育まれるといいなあと、心より思うのであります。


参考文献
加治順人『沖縄の神社』ひるぎ社 2000年



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