戦前の首里城は日本同化の象徴だった 6
1923年、首里正殿を拝殿として創建された沖縄神社は、近代沖縄で初めて新設された神社です。
本土並みの神祇制度を沖縄に確立することを目指していながら、
1879年の沖縄県設置以来、
40年以上の時を要したことになります。
新たな神社の創立に、なぜこんなに時間がかかったのでしょうか?
そこには、神社に祀る
祭神の問題がありました。
1910年、沖縄県は、「県社」の社格を持つ神社の創立を計画します。
沖縄人のアイデンティティを「沖縄県民」に統一する象徴として県社を利用しようと考えたのです。
波上宮の官幣小社加列の動機とほぼ変わらないですね。
その時の祭神案は、
舜天・源為朝・尚泰でした。
舜天は琉球国最初の国王、尚泰は最後の国王
源為朝は、鎌倉幕府を開いた頼朝の叔父にあたる人物で、舜天の父親であるという伝説が古くから琉球にありました。
為朝を祭神に入れることで、国王のルーツが日本にあることを強調したのです。
「英勇一百伝」「鎮西八郎為朝」 肖像 (東京都立図書館蔵)しかし、この計画は明治天皇の崩御でとん挫し、
1914年、再度県社の創立が計画されます。
その際の祭神案は、
尚泰・アマミキヨ・シネリキヨでした。
アマミキヨ・シネリキヨは、琉球で古くから信仰される神です。
舜天は、
中国の冊封を受けていた時代の国王を祭神にすることは後世、問題となる可能性があるという理由で、祭神から外されました。
まだ沖縄県民は琉球王国に立ち戻ろうとする恐れがある、と判断されたのです。
しかし、尚泰・アマミキヨ・シネリキヨの祭神案は国によって却下されます。
アマミキヨ・シネリキヨが
日本の神典に載っていない神であることが理由でした。
紆余曲折しながらも、1923年、ようやく沖縄神社の創立許可が国から降ります。
祭神は、
主神に舜天・尚円・尚敬・尚泰、配神に源為朝でした。
1910年代に問題視された琉球時代の国王が除外されるどころか、結局、四柱に増やされて創立したのです。
1910年から1923年にかけて、いったい何が起こったのでしょうか?
次回に続きます。
参考文献
加治順人『沖縄の神社』ひるぎ社 2000年
鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』角川書店 1965年
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