戦前の首里城は日本同化の象徴だった 7

1910年(明治43)に神社の祭神として認められなかった
舜天源為朝・尚泰

1923年(大正12)に創立が許可され1925年(大正14)に首里城に創建された沖縄神社の祭神
舜天尚円尚敬・尚泰・源為朝


1910年に祭神が認められなかったのは、
舜天が琉球王国時代を彷彿とさせる人物
であるという理由からでした。
(赤字表記の祭神。尚泰は琉球処分が実現した頃の国王だったので、問題にならなかったと思われます)

しかし、1925年に創立した沖縄神社では、結局、
舜天どころか、尚円、尚敬の2国王を加えた五柱が祭神
として認められました。
許可の鍵になったのは為朝です。

“初代国王である舜天の父”と伝わる為朝を配神に祀ることで、
琉球王国は日本人の子孫が築いた国であり、日本に組み込まれても問題はない
という論理を前面に押し出したのです。

でも、1910年だって、同じ「為朝」の論理で祭神案を出していますよね?

実は、1910年頃と1925年頃とでは、沖縄社会の雰囲気がまったく変わっていたのです。


1910年以降、研究者や教育者を中心に、
沖縄人は日本人として積極的に生きていくべきだ
という考えが広がっていきます。
彼らの言説を支えたのは、沖縄人と日本人のルーツは同じであるとする日琉同祖論でした。
先祖が一緒なんだから、同じ国民になったって問題ないよね、
むしろ、より発展している日本に、沖縄は追いつくべきだよね、
と主張したのです。


「為朝」の論理も、日琉同祖論の流れの中で語られて行きます
為朝が舜天の父親であるという確たる証拠もないまま、それが歴史的事実かのように県民に広く伝えられていったのです。


具体例をいくつか挙げます。

1897~1914年に使用された学校の教科書に為朝のことが書かれています。
舜天の父親が為朝であることが、子供たちにしっかり教えこまれました。

また、崇元寺には為朝が使用したとされる鏑矢(かぶらや)が伝承されており、北部の学生が修学旅行で南部に来た際の見学コースとなっていました。(現存しません)
鏑矢を実見した学生が、とても感動したと、当時の新聞記事に感想文を書いています。

戦前の首里城は日本同化の象徴だった 7
崇元寺(山崎正董博士写真)

戦前の首里城は日本同化の象徴だった 7
崇元寺門(山崎正董博士写真)

浦添グスクの東端にワカリジーと呼ばれる突出した岩がありますが、1910年頃、浦添小学校の校長先生の命名で「為朝岩」と呼ばれるようになりました。
つい最近まで、地元の人は「為朝岩」と呼んでいたようです。

戦前の首里城は日本同化の象徴だった 7
為朝岩(山崎正董博士写真)

1923年、為朝が上陸したと伝わる今帰仁村の運天に、為朝上陸の記念碑が建立されました。
この碑はいまも残されています。

その運天港近くの川で発見された淡水魚に「タメトモハゼ」という和名が付けられました。


以上のように、1910年頃~1920年頃にかけて、「為朝」は広く宣伝、認知されていきました。
歴代国王を祭神とした沖縄神社が創立する頃には、県民の誰もが、琉球の初代国王の父親は日本人であると認識していたのです。

沖縄県民にとって「為朝」は、琉球と日本のルーツをつなぐ重要な人物であり、
沖縄神社は、日本への同化を求めた沖縄県民の象徴であったのです。


次回、沖縄県民の同化への意識が、各地の御嶽を神社化させていったというお話をしたいと思います。


(つづく)



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