グスク城説を理解する その2

グスク防御集落説と城説の違いは、グスクが出現する12世紀頃に、
階級社会が成立していたか否か
です。(12世紀より古いグスクも少数ながらあります)


グスク城説を理解する その2
浦添グスク城壁


12世紀直前まで、身内だけでこじんまりと暮らしていたのが沖縄社会であると、防御集落説は考えました。
それから一歩発展して、防御性をもったグスクを築いたのがグスク時代の始まりであると考えたのです。

そんな防御集落説に、当真氏は反論します。
グスク時代は「すでに階級社会に達していた」

その根拠は・・・

難しいですが、列挙します。

興味ない方は読み飛ばしてください(笑)


グスク時代の社会的特徴

①農耕文化が発展した

②鉄器文化が波及した

③海外貿易が活発に行われた

④先島地方を含めた沖縄全域がひとつの文化圏に統一されていく



ざっとこういうことを根拠として、階級社会が成立していたと論じました。


しかし、これらの事実が城説の根拠となり得るかどうかは、はっきり言って私には分かりません


例えば、グスクから出土するグスク出現期の遺物に対して、

防御集落説の嵩元氏は、
「特権者の特別な使用物ではない」
と述べています。

一方、城説の当真氏は、
これらの遺物を輸入した貿易は
「けっして原始共同体の社会の段階でおこりえるものではない」
と論じました。


同じ物を見ていながら、解釈がまったく違うのです。


他にも、グスク成立期に、グスクの主がいったい誰を支配していたのか、という点でも見解が分かれています。

防御集落説は、
支配される側の人々の住居が、グスク周辺に見当たらない
として、城説を否定しています。

一方、城説は、
成立期のグスクは「中世後期のりっぱな城郭をもち、その近くに家来を集めて城下町をつくるというようなものでもなく、範囲が狭い地域におよぶまったく私的なものであった」
とし、階級社会の成立を主張しました。


これまた、同じモノを見て違う結論。

・・・

これはですね、もう私たちには手に負えない問題です。
一流の専門家でさえ、意見が割れているのですから。

現在、もっとも支持を集めているのは防御集落説の感がありますが、
明日には城説、明後日には防御集落説になっていても
私はまったく驚きません(笑)

ただ、考古学を離れ、私の専門分野である聖域的な観点から意見を言わせてもらうと、
私の意見は当真氏のグスク城説に近いです。

これも、いずれお話したいと思います。

次回、グスク山岳信仰説シリーズに入ります。


参考文献

・嵩元政秀「『グシク』についての試論 ―考古学の立場より―」『琉大史学』創刊号 琉球大学史学会 1969年

当真嗣一「沖縄のグシク」甘粕健(編)『考古資料の見方<遺跡編>』柏書房 1977




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この記事へのコメント
すごく面白いです。沖縄人でありながら身近にあったグスクのことを「城」としか認識していませんでした。勉強になります。


固定観念だけで述べると、私もグスクは支配があっての城ということに納得します。

階級社会がない防御壁は府に落ちませんでした。
本当に人々にヒエラルキーがなく、グスクという建造物が作られたのなら、ものすごく高い民度だと驚きます。
しかし、一つの民が防御壁を作った時点で他国から民を守るという目的があるはずです。

集団レベルで攻守が発生する時点で、逆説的に民度は低い気がします。理由は全土にグスク(仮に防御壁)があるということは、それだけ支配、覇権争いがあったからと考えられます。

民度が高くヒエラルキーがないのであれば、全土を通していくつもある防御壁とするグスクは不要だし、城としての守る治めるの役割もない気がします(グスクの役割から見直す必要がでる)。世界の核問題と共通?
対猛獣(対悪霊?笑)であれば防御壁で筋が通る気もしますが、対人であれば“ヒエラルキーがない”防御壁は説明が付にくいように思います。

色々、考えさせられました。今まで琉球は民度が高いと思っていましたがとりあえず、疑問符になりました。ありがとうございましたm(_ _)m


長文、ご迷惑おかけしました。
Posted by ひで汰ひで汰 at 2021年09月12日 22:20
ひで汰さん、コメントくださって本当にありがとうございます!
「民度」という概念が私にはないので、ひで汰さんのお話とは少しずれるかも知れませんが、グスクの石積みは防御壁として築かれていないのではないかというのが自分の見解です。
今帰仁グスクにしろ首里城にしろ座喜味グスクにしろ、自分から見れば防御性はかなり低いです。
にも関わらずあれだけの城壁を築いたということは、別の意味合いがあると思うんですよね。
ここで重要だと思うのが、グスク=聖域ということです。
聖域に君臨した按司が、防御のためではなく、視覚的に権威を誇示するために築いたのがグスクの石積みではないかと思うのです。
ヒエラルキーは間違いなくありましたし、城壁も間違いなく築いていますが、そこに防御性は求めていなかった。
これってすごいことだと思いませんか?
私たち現代人の価値観では説明しきれないグスク。
そこに琉球史のダイナミズムを私は感じるのです。
Posted by コッコたけぞうコッコたけぞう at 2021年09月13日 02:31
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