1910年頃~1920年頃にかけて、沖縄社会は急速に日本への同化を進めていきました。
本土並みの神祇制度を整えることも、同化のための重要事項でした。
首里城に創立された県社沖縄神社は、まさに同化の象徴と言える存在だったのです。
しかし、県社が創立したとは言え、沖縄にはまだまだ全然、神社が足りませんでした。
本土並みは「一村一社」です。
各字ごとに一社というイメージでしょうか。
これだけの数の神社を創立するのは至難の業です。
そこで沖縄県は、
沖縄固有の聖地「御嶽」を、合祀・整理して数と体裁を整え、そのまま神社にしてしまおうと計画しました。
この計画は、1910年には発案されています。その時論調は、
「自然崇拝の御嶽は近代社会にそぐわず、県民が神社の敬神思想を学ぶ邪魔になっている
御嶽を神社にしてしまうことで、日本国に相応しい体裁を整えよう」
といったものでした。
1910年は、県社ひとつ創立することもままならない時代で、御嶽の神社化もまったく進みませんでした。
しかし、同化意識が高まった1910年頃~1920年頃に、各地の御嶽・グスクに鳥居を建立することが流行りだします。
御嶽を神社にするための下準備を、沖縄県民が積極的にしていったのです。
伊祖グスク鳥居(浦添市)
伊祖グスクの鳥居です。
ところどころ補修がありますが、沖縄線の銃撃の痕です。
今帰仁グスク鳥居(今帰仁村)
世界遺産になるまで建っていた今帰仁グスクの鳥居。
現在は取り壊されています。
この他にも、南城市の
佐敷上グスクに鎮座する月代宮、名護市の
名護グスクに鎮座するお社など、同化意識が高まったときに神社の体裁を整え始めた御嶽・グスクはたくさんありました。
そして1943年、御嶽を神社にする法案は可決し、1944年施行されました。
その時の論調は、
「御嶽は神社の古代の形式を留める聖地である
これを神社にすることで、日本民族固有の神社を実は県民は古くから信仰していたこと示すことができ
県民の日本民族としての自覚を強めることができる」
といったものでありました。
同じ御嶽でありながら、
1910年は、御嶽は神社の邪魔になる
1943年は、御嶽は古い形態をとどめた神社である
と大きく変化した訳です。
同化意識が高まる時期に、御嶽に対する解釈も、日琉同祖論の影響を大きく受けたのです。
次回、戦後のお話をして、
「戦前の首里城は日本同化の象徴だった」シリーズを終わりにしたいと思います。
(つづく)
参考文献
鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』角川書店 1965年
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