天皇制の及んでいなかった琉球に、神社は存在しませんでした。
しかし、王府による直接的・間接的勧請で、数社が建立されます。
王府はなぜ神社を取り入れたのか?
はっきりしたことは分かっていません。
大和の神社のネットワークを利用したかったのか。
宗教・政治・外交・医療・土木など様々な能力を持った宗教関係者を琉球に招きたかったからか。
今後の研究課題です。
ところで、
琉球の神社はどのような場に建立されたのでしょうか?
建立場所には重要な意味があります。
琉球の神社の建立場所を考える上で、非常に有益な情報を与えてくれるのが
末吉宮です。
末吉宮(那覇市)
去った大戦で破壊されましたが現在は復元されており、非常に貴重な建築様式を伝えています。
その価値に比して知名度が低いのが残念でなりません。
さて、注目したいのは、拝殿の柱です 。
末吉宮 拝殿の柱
地形に合わせて長い柱・短い柱を器用に使い分け、建立しています。
このような建築技法を
懸造(かけづくり)と言います。
恐らく、歴史的建造物としては
琉球唯一の懸造ではないでしょうか。
懸造といえば、誰もが思い出すのが京都の
清水寺の舞台でしょう。
清水の舞台(京都府)
この舞台はなぜわざわざ懸造で造られたのでしょうか?
こんな急峻な崖に造るより、平坦な場所で作業した方がよほど楽に決まっています。
それなのに、わざわざ懸造にしてまでここに造ったのは、
この場所でなければいけなかったからです。
その理由をお話するために、下のイラストを引用させていただきます。
清水寺・地主神社のイラスト (朝日新聞出版『日本遺産』18号より)イラストの中で、一番左の
山頂に建立されているのは、地主(じしゅ)神社の本殿です。
本殿のすぐ右に建つのが拝殿で、よくみるとこれも
懸造になっています。
そして、拝殿の右にある一番大きな建造物が清水寺の本堂です。
本堂の右に、舞台があります。
実は、
地主神社本殿・拝殿・清水寺本堂は、ほぼ南北の軸に沿って一直線に並んでいます。
地主神社、清水寺の位置する山は、
山岳信仰の聖地でした。
地主神社の本殿は、
神様を頂部に鎮座させるためにこの場所に建立されたと考えられます。
となると、
自ずと拝殿は本殿の南に建てられます。社殿を南向きに建立するのは神社建築では一般的なことです。
清水寺本堂も、
地主神社本殿と拝殿の軸に合わせて現在の場所に建立されました。
言い換えると、地主神社拝殿と清水寺本堂は、地主神社本殿の位置に合わせて建立されたのです。
勾配のきつい斜面地で、ろくに平坦部は造成できません。
しかし、
本殿が頂部にあるから、拝殿は無理にでも斜面につくらなければならない。
それゆえ、拝殿は懸造で建立されました。
舞台も同じ理屈です。
本堂の前に平坦な空間をつくらなければならないから、
わざわざ懸造にしてまであの場所に舞台を造ったのです。
その場所に建てなければいけないから懸造にしたという寺社は全国各地にあります。
祐徳稲荷神社(佐賀県)
山の麓に懸造で建立された祐徳稲荷神社は、山頂の奥の院のほぼ真南に建立されています。
三仏寺投入堂(鳥取県)
龍岩寺奥院(大分県)
三仏寺と龍岩寺は、仏を洞窟に安置したので、お堂は懸造になりました。
笠森寺観音堂(千葉県)
笠森寺は、岩山の頂上に仏を安置したため、それに合わせて懸造にされました。
日本唯一の「四方懸造」という建築技法です。
さて、話を戻して、
末吉宮の場合はどうなのでしょう?
結論を言うと、
末吉宮拝殿の懸造も、本殿の場所に無理やり合わせるために採用されました。
末吉宮本殿写真では分かりにくいですが、
末吉宮本殿は、鉛筆を立てたように突出した岩山の頂部に建立されています。
この岩は、恐らく
もともとはイベ石(磐座)です。
山岳信仰の聖山の頂部に本殿を建立した地主神社の状況と非常に似ています。
王府は、大和から末吉宮を勧請する際、琉球の信仰の聖地を境内として提供したということが、末吉宮の懸造から読み取れるのです。
聖地支配がどれだけ重要なことかはこれまで何度もお話してきましたが、それを差し出してまで神社を創建したのです。
破格の待遇と言っていいでしょう。
では、末吉宮以外の神社に関してはどうだったでしょうか?
次回に続きます。
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