異なる信仰の琉球の神と日本の神仏。
琉球はそれを、
キンマモン = 聞得大君(以下の神女)
= 弁財天
と解釈しました。
これが琉球版の神仏習合です。
この思想が成立したのはいつでしょうか?
何が目的だったのでしょうか?
確実に言えるのは、
成立は尚真王の治世(1477-1527)
以降であるということです。
なぜなら、
聞得大君を頂点とした神女組織は尚真期に創設されたからです。
そして、琉球版神仏習合が生み出されたのはやはり尚真期であろうことが、当時の弁財天の祀られ方から見えてきます。
注目されるのが、
琉球八社のひとつ、天久宮です。
天久宮は、中国年号の
「成化」年間(1465-1487)に創立された、洞窟を祀る神社です。
天久宮元宮跡(那覇市) 現在の社殿は聖現寺の隣天久宮の創建には以下のような縁起があります。
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銘刈翁子という人物が、
山上の森に住む高貴な女性が
中腹の洞窟まで法師を送っていくのを目撃しました。
その女性は、洞窟に入るときに消えてしまったというのです。
銘刈翁子はこのことを王府に報告し、王府が調査に乗り出しました。
洞窟の前に線香をお供えしたところ自然に発火したので、これはもう神様に違いないということで、洞窟の前に社殿を建立しました。
すると神託があり、
「
我(法師)、熊野権現なり。衆生の利益のために、現れたり。
女人は国の守護神、弁財天なり」
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この縁起で興味深いのは、
舞台が山であること、
そして、
熊野神を主祭神とする神社の縁起に弁財天が登場するということです。
この山は紛れもなく
山岳信仰の聖地です。
かつては
山頂に弁財天が鎮座し、
中腹の洞窟に熊野神が祀られていたことになります。
天久宮縁起の舞台となった山(那覇市)さて、この縁起の
「弁財天」を琉球の最高神
「キンマモン」に
変換してみると、
縁起に込められた創建者の思惑が浮かび上がります。
琉球の神(キンマモン)と日本の神仏(熊野神)は、一体となって琉球を守護する存在であることを暗示しているのです。
弁財天は、キンマモンと熊野神を同じ神話で語るための媒介にされたのでした。
琉球版神仏習合は、神女組織を中心とした琉球の宗教体制に、寺社を組み込む意図で生み出された思想であったと言えるでしょう。
このような意図で天久宮を創建したのはだれでしょうか?
天久宮が創建されたのは
成化年間(1465-1487)。
神女組織を作った
尚真の即位は成化13年(1477)です。
キンマモン、神女、弁財天の関係を念頭に置くと、
天久宮の創建は尚真期である可能性が高いでしょう。
神女組織の後ろ盾で王権を正当化されている尚真には、
日本の神仏を自らの宗教政策に取り込む必要があったのです。
尚真が弁財天を意識していた形跡は他にもあります。
円覚寺総門(那覇市)写真は復元された円覚寺総門です。
円覚寺は、尚真が父尚円を祀るために創建した
琉球随一の寺院です。
釈迦如来を本尊としていましたが、弁財天も祀られていました。
弁財天が祀られ始めた時期は記録に残っていませんが、恐らく
尚真でしょう。
天久宮同様、円覚寺を琉球の宗教体制に関連付けるために弁財天を合祀したのです。
また尚真は、
園比屋武御嶽(そのひやんうたき)
と弁ヶ岳という御嶽に同型式の石門を建立しました。
復元された園比屋武御嶽石門(那覇市)
弁ヶ岳(那覇市) 尚真建立の石門は戦争で破壊されたこの両聖地に、弁財天が祀られていたとする記録が残っています。
これも時代は分かっていませんが、尚真が石門を建立したことと無関係ではないでしょう。
以上、
尚真が関わったと考えられる弁財天を祀る聖地は4ヶ所ですが、
国王としては最も多い数です。
琉球最高神と習合していながら、
弁財天を祀る場所は意外に少ないのです。
琉球版神仏習合が、寺社を琉球の宗教体制に理論的に組み込むためだけに生み出された思想だったからかも知れません。
様々な政策をもって御嶽・グスク・墓・寺社など、
ありとあらゆる聖地を手中に収めた尚真王。
その傑出した手腕によって生まれた
“新たな琉球”は、1609年、あの忌々しい事件によって大きく姿を変えられていくのです。
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