グスク好きの、グスク好きによる、グスク好きのためのブログ
グスクは城ではない
というのがグスク聖域説の主張です。
しかし、首里グスクをはじめ、世界遺産に指定されたグスクは明らかに城でした。
浦添グスクや島添大里グスクなど、城であったグスクは他にもたくさんあります。
このことに関して、グスク聖域説はどのように考えたのでしょうか。
グスク聖域説提唱者の仲松氏によると、
グスク(御嶽と拝所を石垣で囲んだ聖域:「その1」参照)の周辺に、按司やその家族、家来などが住みつき、
いつしかグスクと住居をまとめて石垣で囲ってしまった。
それが城の成立であると。
仲松説をイメージ図にしたのが下のものです。
つまり、
「グスク」=「聖域」を城の内部に取り込んでしまったため、いつしか城の事まで「グスク」と呼ぶようになった
というのが、仲松氏の考えです。
その具体例として仲松氏は、首里グスクの京の内、中城グスクの南の郭を挙げました。
京の内と南の郭は拝所の集中する聖域で、ここが本来の「グスク」であろうということですね。
(発掘調査によって、京の内から建物などの遺構が見つかり、元から手付かずの聖域であった訳ではないことが明らかになっています。)
以上がグスク聖域説の大体の概説となりますが、、、
実はこの他に、これだけは絶対に押さえておかなければならない、
しかれども、既存の聖域説の解説でまったくと言っていいほど触れられていない、
グスク聖域説の最重要ポイント
があります。
次回、お話したいと思います。
参考文献
・武部拓磨『グスク聖域と支配者の諸相』 電子書籍 2019年
・仲松弥秀「『グスク』考」『沖縄文化』第5号 沖縄文化協会 1961年