聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

グスク時代の支配者、按司(あじ)は神格化され、聖域(=グスク)に君臨することで自らの権威・神威を誇示した。
グスク支配者聖域君臨説

今回は世界遺産 勝連グスクです。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

復元整備で往時の姿を取り戻しつつありますが、復元前は石積みのほとんど見られないグスクでした。
大正から昭和にかけて、近隣の埋め立て工事のために城壁がほとんどが持ち去られてしまったそうです。

グスクの裏に回ると、石積みの新旧がわかりやすい場所もいくつかあります。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

さて、世界遺産のグスク紹介から始まった「聖域に君臨した按司」シリーズですが、あいだにその他のグスクを挟んでようやく勝連グスクの話に入るのには理由があります。

いつも言っている、按司がイベ石(磐座)の隣に神として君臨しているこの構造。



聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)


勝連グスクにもこの構造が当てはまるのか否か、すこし検討を要するからです。


問題点は2つ。

ひとつめは、グスク頂部、一の郭のイベ石がいつから拝まれているか分からないでしょ? という意見が一部の考古学者から出たことです。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

これが一の郭のほぼ全体写真です。
それほど広くありません。
地面は人為的に平らに造成されています。

他のグスクであれば、イベ石はこの平場の中に自然の姿で頭を出しているのですが、勝連の場合、下のようになっています。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

明らかにイベ石の上面が人為的に削られています。

この様子を見て、ある考古学者が、
・イベ石は、グスク時代、建物の基礎か床として使用されていたのではないか。
城の時代が終わったあとに、イベ石となったのではないか。

と大胆な仮説を立てました。
グスク時代には一の郭にイベ石はなかった、という説です。


ふたつめの問題点は、首里城の正殿に匹敵する建造物は一の郭ではなく、ひとつ下の二の郭にあったとする考えです。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

上の写真は、三の郭から二の郭・一の郭を見ているものです。
一番手前の石積の上が二の郭、もっとも高いところが一の郭です。
二の郭には、大きな建造物が建っていました。

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)
二の郭の大型建造物跡

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)
一の郭側からみた二の郭の大型建造物跡

一の郭にも建物はありましたが、規模的に見て、二の郭の建造物の方がより権威的だったのではないかという考え方です。


それでもなお、私の考えは、
頂部イベ石はグスク時代から拝まれていた
勝連グスクで最も権威的・象徴的な建造物は一の郭にあった

です。


まず、イベ石に関して

確かに上面が削られていますが、いつの時代に削られたかは分かりません
ただ平らになっているというだけで、グスク時代に建物の基礎であった根拠はなにもないのです。

また、一の郭のイベ石は「玉ノミウヂ」と呼ばれますが、『おもろさうし』という琉球最古の歌謡集の中で、勝連グスクが城として謡われている歌謡に登場します。
城の時代から「玉ノミウヂ」は存在したことになりますが、一の郭のイベ石が「玉ノミウヂ」でないとなると、他のどこにあったのか?
それがまったく論じられていません。候補がまるで見当たらないのです。
さらに、グスク頂部に拝所がなかったということになれば、「グスク」としては非常に稀な例となり、勝連グスクがなぜ特異な構造になっているのか、ということも考えないといけません。

私の考えでは、イベ石上面が平らに削られたのは近代以降です。

首里グスクの最高聖地「首里森御嶽」でさえ、イベ石は平らに削られてしまいました。
近代とはそういう時代です。
「玉ノミウヂ」が削られたとしてもなんら不思議はありません。
(首里森御嶽のイベ石もかなり昔に削られたと考える研究者もいますが、根拠は薄弱です)

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)
首里グスク正殿からみた首里森御嶽

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)
発掘中の首里森御嶽 右上の平らな岩が削られたイベ石
(『首里城跡ー下之御庭首里森御嶽地区発掘調査報告書ー』2008年)

次に建造物に関して


確かに、二の郭の建造物は一の郭より大きいです。
しかし、「大きさ=権威」という訳ではありません
神社がいい例ですが、ご神体が祀られている本殿より拝殿の方が大きいことはしばしばです。

備前八幡宮
備前八幡宮(岡山市)

勝連グスクの発掘調査でも、二の郭より一の郭の方が上質の輸入陶磁器が出土しているようです。
出土遺物からみても地形の高低差から考えても一の郭の方が上位であることは間違いなく、勝連グスクを代表する権威的建造物は、一の郭にあったと考えるべきだと思います。

つまり、
神格化した支配者(按司)が聖域に君臨した、頂部で拝所と建造物が隣り合う構造
は勝連グスクでも成立していたと考えられるのです。

しかしながら・・・

聖域に君臨した按司7 勝連グスク(3Dモデルあり)

現地の資料館にある復元想定模型です。
一の郭は建物だらけ。聖域らしいものは一切見当たりません。
聖域のないグスクは「グスク」ではない!!
と心の中で叫んでしまいます(笑)

とまあ、これは私の考えですが、
十人十色の歴史観が生まれるのが歴史ロマンですよね。

勝連グスクのジオラマ模型の3Dモデルを埋め込んでおきますので、くるくる回しながら往時に想いを馳せてください。


ちなみに、勝連グスク現地の模型は水平・垂直の縮尺が1/200・1/125となっており、高さが強調されたモデルとなっています。
上の3Dデータは、1:1の比率に変えてありますので、ご了承下さい。



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