グスク論争、2つの最大の争点 (下)

グスク論争、最大の争点は2つです。


争点①
グスク石垣内において、聖域はどれくらいの範囲を占めていたか?

争点②
グスク石垣内に、人は住んでいたか?



この問題に対するグスク研究者の見解は、以下です。


争点①に対して

Ⅰ:グスク石垣の中、全域が聖域である
ⅰ:グスク石垣の中に拝所があり、そこだけが聖域


争点②に対して
Ⅱ:人の居住はなかった
ⅱ:人の居住があった



ふたつの問題に対してふたつずつの解。その組み合わせは

(Ⅰ-Ⅱ)・(Ⅰ-ⅱ)・(ⅰ-Ⅱ)・(ⅰ-ⅱ)

4通りあります。


ところが、グスクの各説(聖域説(葬所)・防御集落説・城説・聖域説(山岳信仰))からは、

2通りの解しか提起されませんでした。


その2通りとは、(Ⅰ-Ⅱ)・(ⅰ-ⅱ)です。

(Ⅰ-Ⅱ):グスクは全域が聖域であり、人の居住はなかった
聖域説(葬所)・聖域説(山岳信仰)

(ⅰ-ⅱ):グスクには拝所があって、それを囲うように人が住んでいた
防御集落説・城説

と意見は大きく二分されました。

では、なぜこのふたつに意見は絞られたのでしょうか?
それは、
聖域に人が住むことはないという先入観
を前提に、議論が進められていったからです。

つまり、
(Ⅰ-Ⅱ) → 全体が聖域だから、人が住んでいるはずがない (聖域説(葬所)・聖域説(山岳信仰))
(ⅰ-ⅱ) → 人が住んでいるんだから、全体が聖域であるはずがない (防御集落説・城説)
と、ほとんどすべての研究者が思い込んでいたのです。

しかし、本当にそうでしょうか?

(ⅰ-Ⅱ):グスクには小さな拝所があって、人は住んでいなかった
が成立しないのは分かります。
聖域ではない、人も住んでいない、となると、石垣を築く理由が見当たらないからです。

しかし、(Ⅰ-ⅱ)はどうでしょう?
(Ⅰ-ⅱ):グスクは聖域であり、人の居住もあった

例えば、過去記事で、山を神の依代として麓から崇める大神(おおみわ)神社をご紹介しましたが、
日本に仏教が伝来して以降、こうした神体山の山中に寺院が建立された事例は全国各地で見られます。
有名どころでいうと、比叡山延暦寺は、日吉大社の神体山に創建されたと考えられます。

グスク論争、2つの最大の争点 (下)
日吉大社の山王鳥居

神体山に建立された寺には、修行のために僧侶が起居したわけであり、
聖域に人が住んでいたことになります。

グスクに関してはどうでしょう?
グスク時代(12~16世紀)の琉球において、
聖域に人が住んでいなかった根拠は何もありません


私の提唱する「グスク支配者聖域君臨説」は、
(Ⅰ-ⅱ):グスクは全体が聖域であり、人の居住があった
とするまったく新しいグスク論です。

次回、こそ(笑)、
グスク支配者聖域君臨説の解説に入っていきたいと思います!


参考文献
武部拓磨『グスク聖域と支配者の諸相』 電子書籍 2019年



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