神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。
今回は、今帰仁村は運天の
百按司墓(むむじゃなばか)です。

百按司墓全景
百按司墓は単体のお墓でなく、運天集落の北東側丘陵中腹に並んだ5基のお墓の総称です。
上の写真で、手前が第1号墓、奥に行くに従って第2~5号墓と便宜的に番号が振られています。
百按司墓は、前回ご紹介した
漢那ウェーヌアタイと同じ
木製家型墓で、今も現地に木材が残っています。


百按司墓は、1697年に編纂された『中山世譜』という史書に記録されています。
それによると、被葬者はその地域の
「貴族」だったとか。
支配者階級であったと考えて間違いないでしょう。
また、板厨子という納骨器に
「弘治十三年」(1500年)と書かれていたことも分かっており、
百按司墓はグスク時代に遡ることが間違いないお墓のひとつと言えます。
ちょっとここで、
板厨子についてお話します。
漢那ウェーヌアタイでは、遺骨は木製家型墓に直接葬られていたようですが、百按司墓では、遺骨は板厨子という脚付きの木箱に納め、それを家型墓に安置したようです。
脚付きの木箱と言えば、ふつう脚の数は4本ですよね?
ところが、百按司墓の板厨子は、4本脚だけではなく、下のような物もありました。

東恩納寛惇撮影の板厨子
(今帰仁村教育委員会『運天の古墓群~百按司墓・大北墓~』2012年より)
角の脚が欠損してしていますが、もともとはあったようです。
角4本、長側面4本、短側面2本、
合計10本脚です。
側面に脚って、あまり馴染みがありませんよね?
これが、
本土の神社仏閣ではまったく珍しくないのです。

唐櫃(備前国総社宮蔵)
唐櫃、「からびつ」と読みます。
神社仏閣では、ご神体・経文・神宝・仏具などを納めています。
側面に脚のある板厨子は、
唐櫃の影響を受けている可能性があるのです。
(この話はまた後日、詳しくする予定です。)
話を本筋に戻しますが、
百按司墓も聖なる山の頂部直下に位置していると考えられます。
下の写真と地形図から、百按司墓と丘陵頂部の位置関係をご確認ください。


今帰仁村教育委員会『運天の古墓群~百按司墓・大北墓~』2012年の図に加筆
写真の
赤丸は第1号墓の位置です。
第1号墓は百按司墓の中では一番東にあり、もっとも格が高いと思われます。
ドンピシャで直下と言えるのはやはり、第1号墓です。
百按司墓の丘陵は運天森と呼ばれていますが、グスク時代に神聖視されていたかどうか、実は確認できていません。
ただ、その頂部には香炉が設けられています。

運天森頂部の香炉
今現在、香炉があるからと言って運天森がグスク時代から聖域であったと断言はできませんが、按司墓は聖なる山の頂部直下に造営されたという私の説を否定する材料にもなりません。
むしろ、
百按司墓がドンピシャで頂部直下に位置するのは単なる偶然ではないと考えるのは、主観に過ぎるでしょうか?
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