聖域に造営された按司の墓15 最古の按司墓 浦添ようどれ(下)

神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。

前回の記事「聖域に造営された按司の墓14」で13世紀後半に造営された最古の按司墓「初期浦添ようどれ」の想定復元イメージをご紹介しましたが、現在みられるようどれは、17世紀前半に大改修された姿を復元したものです。

聖域に造営された按司の墓15 最古の按司墓 浦添ようどれ(下)
浦添ようどれ全景

時の国王、尚寧が威信をかけて行った大改修。
その姿は間違いなく琉球随一です。

後世に改修された按司墓は数ありますが、時の支配者が造営または改修した按司墓としては、最新のものがこのようどれです。

浦添ようどれは、最古にして最新の按司墓なのです。

残念ながら、その価値に比して知名度があまりにも低い浦添ようどれ。
行き慣れた人も、その圧倒的な規模・迫力は実感していない人が多いのではないでしょうか。

それは、ようどれに入るコースの問題です。
通常のコースである浦添グスク・ようどれ館側から入ると、着いたときには既に墓域内で、ようどれの迫力を体感するタイミングがありません。

ご興味のある方は、ようどれの北側麓から登って入ってみてください。
小さいながら駐車場もトイレもあります。
そこから歩いて2~3分。
突如として現れる圧倒的な存在に度肝を抜かれることでしょう。


さて、最後に、初期浦添ようどれがチャンプルー技術で成立した、というお話をして終わりたいと思います。

聖域に造営された按司の墓15 最古の按司墓 浦添ようどれ(下)

上は前回も紹介した初期ようどれ想定復元ですが、少なくとも3ヵ国の技術が活用されています。

洞窟内建造物の瓦は、高麗系の技術で造られました。
骨を納めた板厨子は、日本の唐櫃の影響を受けています。
そして、聖なる山の頂部直下に洗骨した骨を祀るというのは、初期ようどれで確立された琉球独自の葬法と言えるでしょう。

首里城正殿が中国・日本・琉球の技術が融合した建造物であることは有名ですが、外国の技術を導入し独自のモノを作り出す手法は、13世紀後半の浦添ようどれにすでに見られます

そしてこれが、すべての按司墓の起源、ひいては、現代沖縄の墓のルーツであると考えられるのです。



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