神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。
前回の記事「聖域に造営された按司の墓14」で13世紀後半に造営された最古の按司墓「初期浦添ようどれ」の想定復元イメージをご紹介しましたが、現在みられるようどれは、17世紀前半に大改修された姿を復元したものです。
浦添ようどれ全景時の国王、尚寧が威信をかけて行った大改修。
その姿は間違いなく
琉球随一です。
後世に改修された按司墓は数ありますが、
時の支配者が造営または改修した按司墓としては、最新のものがこのようどれです。
浦添ようどれは、最古にして最新の按司墓なのです。
残念ながら、
その価値に比して知名度があまりにも低い浦添ようどれ。
行き慣れた人も、その
圧倒的な規模・迫力は実感していない人が多いのではないでしょうか。
それは、ようどれに入るコースの問題です。
通常のコースである浦添グスク・ようどれ館側から入ると、着いたときには既に墓域内で、ようどれの迫力を体感するタイミングがありません。
ご興味のある方は、ようどれの
北側麓から登って入ってみてください。
小さいながら駐車場もトイレもあります。
そこから歩いて2~3分。
突如として現れる圧倒的な存在に度肝を抜かれることでしょう。
さて、最後に、
初期浦添ようどれがチャンプルー技術で成立した、というお話をして終わりたいと思います。
上は前回も紹介した初期ようどれ想定復元ですが、少なくとも
3ヵ国の技術が活用されています。
洞窟内建造物の
瓦は、高麗系の技術で造られました。
骨を納めた
板厨子は、日本の唐櫃の影響を受けています。
そして、
聖なる山の頂部直下に洗骨した骨を祀るというのは、初期ようどれで確立された
琉球独自の葬法と言えるでしょう。
首里城正殿が中国・日本・琉球の技術が融合した建造物であることは有名ですが、
外国の技術を導入し独自のモノを作り出す手法は、13世紀後半の浦添ようどれにすでに見られます。
そしてこれが、
すべての按司墓の起源、ひいては、現代沖縄の墓のルーツであると考えられるのです。
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