神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。
按司墓シリーズ、今回で最終回です。
最後を飾るのは、按司墓としては最後(1501年)に造営された
世界遺産 玉陵(たまうどぅん)です。
前回の記事で、浦添ようどれは「
時の支配者が造営または改修した按司墓としては最新」とお話しました。
玉陵は、時の支配者が新規造営した按司墓として最新です。
各地の支配者をみな強制的に首里に集め住まわせ、中央集権体制を確立した尚真王が造営しました。
いま話題の
ドラマ『尚円王』の息子にあたります。
その姿は、
他の按司墓とは一線を画す特殊な構造になっています。

玉陵
石積みで全体を形作っていますが、建造物の形をしています。
このような墓を
破風墓(はふばか)と言います。
琉球王国時代は、庶民の築造が禁じられていた格式ある形態です。
玉陵の屋根部分には、石造りに無用な屋根を支える垂木まで表現されており、明らかに
木造建築を模しています。
一説では、当時の首里城正殿をコピーしたのではないかと言われています。

軒先下のギザギザが垂木表現墓室は石灰岩の岩盤を削って造られています。
そう、
玉陵の土台は石灰岩の岩山なのです。
最古の按司墓、浦添ようどれが岩山の
横穴内部に木造建造物を建てたのに対し、
玉陵は、
横穴の外部に石造りの建造物を表現する形を採りました。
200有余年でここまで変化した按司墓の外観ですが、
聖なる岩山の頂部を重要視する価値観は変わらず受け継がれています。
下の写真をご覧ください。

全体が整然と石積みで形造られる中、
赤丸をつけた2ヶ所だけ、石灰岩が自然の姿のままに残されています。
特に右側の岩は、周辺が平らに造成されるなか意図的に残されており、
グスクのイベ石と同じ構造になっています。
しかも、この
2ヶ所の岩は、玉陵の土台となっている岩山の頂部に位置するのです。

玉陵立面図
(文化財建造物保存技術協会『重要文化財 玉陵復原修理工事報告書』玉陵復原修理委員会 1977年より)
さて、まとめになりますが、
支配者たちが“聖なる山への造墓”にこだわったのはなぜでしょうか?
その理由を考えるのに
重要なヒントを与えてくれる石碑が玉陵にあります。
玉陵の碑文です。
ここには、
玉陵に葬ることを許された人物の名前が記されています。
王族9人とその子孫は、千年も万年も玉陵に眠ることが認められました。
極めつけは最後の一文です。
記された人物以外の者が玉陵に葬られような事があれば、
「天に仰ぎ、地に伏して、祟るべし」
と刻まれているのです。
この支配者たちは、
なぜここまで玉陵を独占しようとしたのでしょうか?
その理由は理屈で考えても分かりません。
もっと
スピリチュアル的なことです。
要は、玉陵の土台となった
岩山の聖性を独占することが、この王族にとって最重要事項だったのです。
それは神の恩恵を王族だけで占有することを意味します。
信仰心の篤かったであろう当時において、
聖地の独占は、国を治めるのに必要不可欠なことと考えられていたのでしょう。
グスク時代の支配者たちが、聖なる山に城を築いたのも、墓を造営したのも、このような
スピリチュアル的感覚が根付いていたからと考えられるのです。
お城・史跡ランキング