神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。
満を持して登場

今回は、浦添市の
浦添ようどれです。

浦添ようどれの東室と西室
(特別な許可を頂いてこの位置から撮影しています)ここまで11ヶ所の按司墓を紹介してきました。
これらは
なぜ「聖なる山の頂部直下」という立地で共通しているのでしょうか?
その答えが浦添ようどれにあります。
浦添ようどれは、
按司墓の中ではとにかく別格です。
琉球最古にして最大の按司墓です。
按司の中でも頂点に立った王の墓なので、王陵と言った方が正しいでしょうか。
向かって右の墓室に英祖王一族、左に尚寧王一族が葬られているとされています。
墓室には大きな石厨子(石製納骨器)が安置されています。

浦添ようどれ西室内(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)

浦添ようどれ東室内(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)
写真は尚寧王の石厨子ではありません
浦添ようどれは、発掘調査によって、
13世紀後半に造営されたことが判明しました。
最古の按司墓です。
その後、
14世紀後半~15世紀前半頃に第1次大改修が実施されました。
上の写真の石厨子が安置されたのはその頃と考えられます。
琉球最古の石厨子であり、石厨子に掘り込まれたレリーフは、
琉球最古の仏教美術です。

東室の石厨子のレリーフ
浦添よどれは、
17世紀前半に第2次大改修を経て、ほぼ今の形に整えられたと考えられます。
ただし、沖縄戦の被害は甚大で、現在の石積みはほとんどが復元です。
浦添ようどれの凄さはもう、語りだすと止まりません。
止まりませんが、止めないと止まらないので、止めます。
ここで重要なのは、
浦添ようどれが琉球史上初めて聖なる山の頂部直下に造営された墓であるということです。

復元前の浦添ようどれ東室と西室、格上なのは東室です。
琉球では東が重視されることと、東室の方がやや高く造られていることからも明らかです。
その
東室が、丘陵頂部の直下に位置していることが、上の写真からよくお分かりいただけると思います。
琉球で聖なる山の頂部直下に築かれた按司墓は、浦添ようどれを模していると考えられるのです。
次回、浦添ようどれが聖なる山に造営されるに至った歴史的経緯をお話したいと思います。
お城・史跡ランキング