聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)

神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。

満を持して登場キラキラ 
今回は、浦添市の浦添ようどれです。

聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)
浦添ようどれの東室と西室
(特別な許可を頂いてこの位置から撮影しています)

ここまで11ヶ所の按司墓を紹介してきました。
これらはなぜ「聖なる山の頂部直下」という立地で共通しているのでしょうか?
その答えが浦添ようどれにあります。

浦添ようどれは、按司墓の中ではとにかく別格です。
琉球最古にして最大の按司墓です。
按司の中でも頂点に立った王の墓なので、王陵と言った方が正しいでしょうか。
向かって右の墓室に英祖王一族、左に尚寧王一族が葬られているとされています。

墓室には大きな石厨子(石製納骨器)が安置されています。

聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)
浦添ようどれ西室内(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)

聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)
浦添ようどれ東室内(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)
写真は尚寧王の石厨子ではありません

浦添ようどれは、発掘調査によって、13世紀後半に造営されたことが判明しました。
最古の按司墓です。

その後、14世紀後半~15世紀前半頃に第1次大改修が実施されました。
上の写真の石厨子が安置されたのはその頃と考えられます。
琉球最古の石厨子であり、石厨子に掘り込まれたレリーフは、琉球最古の仏教美術です。

聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)
東室の石厨子のレリーフ

浦添よどれは、17世紀前半に第2次大改修を経て、ほぼ今の形に整えられたと考えられます。
ただし、沖縄戦の被害は甚大で、現在の石積みはほとんどが復元です。

浦添ようどれの凄さはもう、語りだすと止まりません。
止まりませんが、止めないと止まらないので、止めます。

ここで重要なのは、浦添ようどれが琉球史上初めて聖なる山の頂部直下に造営された墓であるということです。

聖域に造営された按司の墓13 最古の按司墓 浦添ようどれ(上)
復元前の浦添ようどれ

東室と西室、格上なのは東室です。
琉球では東が重視されることと、東室の方がやや高く造られていることからも明らかです。
その東室が、丘陵頂部の直下に位置していることが、上の写真からよくお分かりいただけると思います。

琉球で聖なる山の頂部直下に築かれた按司墓は、浦添ようどれを模していると考えられるのです。

次回、浦添ようどれが聖なる山に造営されるに至った歴史的経緯をお話したいと思います。



お城・史跡ランキング





同じカテゴリー(聖域に造営された按司の墓)の記事

この記事へのコメント
楽しみにしていました、按司墓のモデルとされている浦添ようどれの記事ですね!

西室内の石厨子の屋根についてですが、頭頂部の飾りの違いはあっても同じようにみえます。一方、東室内の石厨子の屋根の形はそれぞれ異なっていると思います。何か理由はあるのでしょうか?
Posted by Xavier at 2020年02月25日 00:05
Xavier さん
> 楽しみにしていました

ありがとうございます!
お待たせしました(笑)

> 西室内の石厨子の屋根についてですが、頭頂部の飾りの違いはあっても同じようにみえます。一方、東室内の石厨子の屋根の形はそれぞれ異なっていると思います。何か理由はあるのでしょうか?

西室の3基は同じに見えますが、一番右(墓室奥)側の石厨子が宝頂・屋根・胴部・基部の4パーツで出来ているのに対し、入口側2基は胴部・基部が一体になっており、全部で3パーツからなっています。
このような構造の違いがある場合、考古学的にはまず制作年代に差があることを疑います。
それぞれの石厨子に納められた人骨を調査した結果、いずれも数十人が葬られていたのですが、墓室奥の石厨子は骨がパーツごとに揃えて入れられていたのに対し、入口側2基は、関節がつながる位置で並んだ骨が見られました。
この意味するところは、奥側の人骨は何かから入れ替えられた人たち、入口側は直接この石厨子に葬られた人たち、ということです。
奥側の石厨子には、初期ようどれの人骨が移されたのであろうと考えられます。初期ようどれの板厨子が朱漆塗りと想定されるのは、奥側石厨子の中に多量の朱漆片が混ざっていたからです。
葬られた人骨が奥側石厨子の方が古いので、石厨子は奥側が古いと想定されます。
それでも、同時に設置された可能性は否定できません。その場合、奥側には初期ようどれの人骨が入り、入口側は空の状態だったことでしょう。そして、石厨子の構造が異なる理由は、格の違いを表現するため、ということになるでしょうか。

東室の一番大きな石厨子は西室奥側と同タイプで、人骨の状態も同じでした。初期ようどれの遺骨が移されたものと思われます。
東室残り2基の石厨子の年代は分かりませんが、近世の石厨子と同系統になりそうなので、比較的新しいと考えられます。人骨は残っていませんでした。
Posted by コッコたけぞうコッコたけぞう at 2020年02月25日 17:12
わかりやすく丁寧な解説ありがとうございました!気になるところがあったら、また質問させてください。
Posted by Xavier at 2020年02月27日 10:53
Xavier さん
こちらこそ、いつもコメントをありがとうございます。
なにかありましたら、またお願いします(^^)
Posted by コッコたけぞうコッコたけぞう at 2020年02月27日 14:52
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。