聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)

神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。

すべての按司墓のルーツは、浦添ようどれだったと考えられます。

戦災で破壊された浦添ようどれも今は復元され往時の威容を取り戻していますが、按司墓のルーツとなったのはこの姿ではありません。
復元されたのは17世紀前半に改修されたもの。
ルーツとなったのは、13世紀後半にはじめて造営された頃の姿です。

私、13世紀後半のようどれの姿を想定復元してみました。
できたてほやほや。初公開です。
どうぞご覧ください。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
初期浦添ようどれ想定復元イメージ

造営された頃の浦添ようどれは、恐らくこんなイメージでした。
人工的に洞窟を広げ、建造物を築き、その中に骨を納めた木箱を安置しました。

納骨された木箱は、百按司(むむじゃな)墓と同じく、唐櫃形の板厨子だったと考えられています。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
朱漆塗り唐櫃形板厨子、想定復元(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)

この初期ようどれの姿を模して、他の按司墓は造営されました。
百按司墓や漢那ウェーヌアタイで洞窟内に木製家型墓が設けられたのも、浦添ようどれの影響です。
その他、現在は石積みの按司墓も、元は墓室内に建造物があった可能性があります。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
漢那ウェーヌアタイの木製家型墓

そして肝心なのが、聖なる山の頂部直下という位置です。
上の写真から、ようどれが山の頂部直下に造営されたことはお分かりいただけると思います。
この山上は、14世紀後半~15世紀前半頃に拡張した浦添グスクの縄張りに取り込まれますが、その際、埋められも削られもせず意図的に残された岩が今も確認できます。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
浦添グスクのイベ石

周辺地形が平らに造成される中、特定の岩が埋められも削られもせず自然の姿のまま残されるのは、典型的なグスクのイベ石の構造で、ようどれの造営された山が聖なる山であった証拠であると言えます。
(現在、このイベ石の信仰は失われています)


さて、ではそもそも、浦添ようどれはなぜこのような姿で造営されたのでしょうか?
浦添ようどれのルーツはなんなのでしょうか?

そのヒントは「寺」にあります。
文献情報から、浦添ようどれと同時期に、「極楽寺」が創建されたことがわかっています。琉球初の寺院です。
そして、ようどれの別名は「極楽山」です。

極楽寺と浦添ようどれは密接な関係にあったことは間違いありません。

私は、浦添ようどれは、極楽寺の一施設として造営されたのではないかと考えています。
というのも、初期ようどれの姿は、本土の寺社建築と共通すると考えられるからです。

まず、洞窟内に建造物。
これは、日本の寺社でしばしば見られる構造です。
分かりやすい例を下にご紹介します。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
三仏寺投入堂(鳥取県)

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
三仏寺観音堂(鳥取県)

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
天安河原御社殿(宮崎県)

そして、建造物に納められた唐櫃形板厨子。
前回もお話しましたが、唐櫃は、寺社ではご神体、経典、神宝、仏具などを納めるのに使用します。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
備前国総社宮の唐櫃(岡山県)

・洞内の建造物
・祀られた唐櫃(板厨子)


浦添ようどれは、極楽寺の創建と同時に、寺社建築を模して造営されたのです。
ようどれの第1次大改修(14世紀後半~15世紀前半)で建造物に変わって安置された石厨子が、建物形で仏教彫刻が施されているのも、その名残でしょう。

聖域に造営された按司の墓14 最古の按司墓 浦添ようどれ(中)
浦添ようどれの石厨子(浦添市教育委員会『蘇った浦添ようどれ』2005年より)

ただし、ようどれ洞窟内の建造物に祀られたのは神仏ではありませんでした。
祀られたのは、按司一族の骨です。
これは重要なポイントです。

浦添按司は、神仏と同じ祀られ方をすることで、自らの神格を強調したのです。



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