神格化された按司(支配者)の墓は、聖なる山の頂部直下の中腹に造られた。
今回は、
久米島の聖なる山、具志川グスクに造営された按司墓です。

具志川グスク(久米島)の城壁
・・・いつもなら按司墓の写真からご紹介するのですが、今回はありません。
実は私、具志川グスクの按司墓は見たことがないのです(^^;)
久米島に調査に行った際、ここに按司墓があることを知らなかったんですよね~。。。
しかし、後日、久米島町が発刊した発掘調査報告書を見ると、
具志川グスクにおいても頂部直下に按司墓が存在することが判明しました。

久米島町教育委員会『具志川城跡発掘調査報告書Ⅱ』2008年に加筆いや~、この按司墓、ぜひ見てみたいものです。
さて。
自分の目で確かめていないものを紹介するのは本意ではなかったのですが、あえて話題にしたのには訳があります。
具志川グスクという城の成り立ちが非常に面白いのです。
沖縄には数多くの城塞的グスクが存在しますが、なぜそこに築かれたのか、ほとんど分かっていません。
しかし、久米島の具志川グスクは、
その場所が選ばれた経緯が文献史料『久米具志川間切旧記』に記されているのです。
その内容をざっくり言ってしまうと、「仲地にや」という人物が、
御嶽(聖地)に城を築くよう按司に勧め、実現しました。
それが
具志川グスクであると。

海側からみた具志川グスク
過去記事で、グスク=「城」・「防御集落」説と「聖域」説が対立したのは、「聖域に人が住むはずはない」という固定観念があったからだとお話しました。
(
「グスク論争、2つの最大の争点 (下)」参照)
しかし、
グスクは聖域で、聖域の中に支配者が住んだのだ、というのが私の
グスク支配者聖域君臨説です。
具志川グスクの成り立ちは、私のグスクのイメージにぴったりなのです。
ただし、『久米具志川間切旧記』の成立は1743年頃で、具志川グスクの築城より数百年も後です。
賢明な研究者は、数百年も後に書かれた文献が、必ずしも真実を述べているとは限らない、と考えます。
グスクと同時代に書かれたものでないから鵜呑みにはできない、ということですね。
しかし、
“御嶽(聖域)に城が築かれることはあり得る”と思っていた人が少なくとも1743年に存在したことは間違いありません。
だからこそ、具志川グスクが御嶽に築かれたことが
事実として記載されたのです。
グスク研究は、「聖域に人が住むはずはない」という固定観念を捨てて進めなければならないと強く思うのです。
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